(1)全ての不信感、東電がはけ口
2011.8.25 22:51
「東電のばか野郎が!」。首相の菅直人が、福島第1原子力発電所事故をめぐり東京電力への怒りを爆発させたのは3月15日、東日本大震災の発生から4日後のことだった。本紙は同月11日の大震災から1週間後の検証記事で「東電が後ろ向きな姿勢だったことに、菅が不信を募らせた」とした。だが、その後分かってきたのは、現場を理解しない上スタッフも信用せず、イライラを「東電不信」という形でぶつける最高指揮官の姿だ。冷静さを失った菅が自ら作り出した「東電不信」-。首相は26日、正式に退陣を表明するが、東日本大震災を「天災」から「人災」に変質させた首相の混乱ぶりを改めて検証する。(今堀守通)
海水注入
「海水注入を止めるような指示はしていない。真水がなくなったら、海水を入れるのは当然の判断です」
菅は週刊朝日のインタビューで、3月12日夜の1号機海水注入について「首相が注入停止を指示した」との報道を改めて否定した。
だが、関係者が異なる菅の姿を証言し始めた。
同日午後に起きた1号機の水素爆発。菅はこれですっかり狼(ろう)狽(ばい)していた。東電や原子力安全委員長の班目(まだらめ)春樹ら原子力の専門家さえ、格納容器が破裂する可能性はあっても建屋の水素爆発は「想定外」。菅は水素爆発の可能性を進言しなかった班目らへの不信感を強めていた
そこに海水注入が持ち上がる。
東電は原子炉注入用の真水がなくなる12日午後2時50分すぎに海水注入を行うと決め、首相官邸にファクスで通報した。ところが官邸内の危機管理センターに届けられたファクスは書類に埋もれ、菅の手元には届かなかった。
東電側は「官邸の反応がない」。菅は「東電は何も言ってこない」。双方がイライラした。こうして、海水注入をめぐるドタバタが始まる。
午後6時前。首相執務室隣に用意された原発事故用の対策室。菅の前に経済産業相の海江田万里、班目、東電関係者らが集まった。
海水注入開始を知っていた東電関係者が「海水注入しかない」と説明。全員が菅の顔色をうかがった。
菅は「すぐにしろ」とは言わなかった。
「安全委はどうだ。保安院はどうだ」
矢継ぎ早にただす菅。班目らが「それしかない」と返事すると、しばらく沈黙してから「爆発」した。
「海水を入れると、再臨界になるという話があるじゃないかっ」
さらに、班目らに視線を向けると言い放った。
「君らは(建屋の)水素爆発はないと言っていたな。だから、再臨界はないと言い切れるか!」
負い目を感じた班目らが「ゼロではない」と答えると、菅は「その辺をもう一度整理しろ」と怒鳴り散らした
その場の東電関係者は、「この状況で海水注入はできない」と判断。慌てて部屋を出ると、携帯電話で東電本店に連絡を取った。
「首相の了解が得られていません」
本店は海水注入作業の一時中止を福島第1原発所長の吉田昌郎に指示。対策室にいた一人によると、首相補佐官の細野豪志(現・原発事故担当相)も電話で吉田に「首相了解が得られるまで作業をやめろ」と伝えた。
吉田も含め原子力の専門家からみれば、不純物の少ない真水のほうこそ再臨界の可能性があり、海水注入による再臨界を指摘する菅は「ナンセンス」だった。
吉田が、菅の「指示」を無視し海水注入を続行したのは奇跡的だった。菅は後に、この日の経緯がなかったかのように「注入を続けたこと自体は間違いではない」と、白を切り通す。
首相の指示なしでは動けなくなった東電。そして、菅はハリネズミのように、周囲すべてに不信の目を向け「東電は海水注入に後ろ向きだ。これは廃炉を恐れているのだ」と、東電不信にはけ口を求めていくようになった。(敬称略)
(2)不満は水素爆発から始まっていた
水素爆発
首相、菅直人が受けた最初の衝撃は、3月12日午後3時半過ぎに1号機の建屋が水素爆発で吹っ飛んだことだった。
当時、菅は官邸に各党党首を集め、福島第1原発について「危機的な状況にはならない」と楽観的な見方を示していた。
それだけに、会談を終えて首相執務室に戻った菅は「一報」に震え上がった。同時に「現地から『大きな爆発音がした』という情報がありました」との東電からの曖昧な情報に「正確な情報が来ない」と不満を抱いた。
現場では、発電所長の吉田昌郎らが重要免震棟に詰めていたが、爆発した1号機全体を映し出すモニターがない。「外に出て確認します」と部下はいうが、放射線量が高く、外に出るのは容易ではなかった。
だが菅は、数時間前に現地視察したにもかかわらずそれが理解できず、「情報が遅い」の一点張り。
「どうなっているんだ」
東電のオペレーションルームに再三にわたって催促するが、爆発から1時間が過ぎても正確な情報は来ない。テレビ局が第1原発に向けたカメラを設置しているのを知っていた経済産業相、海江田万里が「NHKから映像を借りたらどうか」と提案。NHKには「諸般の事情」で拒否され、最終的に民放テレビ局の映像を借りた。
菅は、民放からの映像を見て水素爆発を確認するしかなかった。
「どうなっているんだ」
菅はすべての責任を東電に押しつけつつあった。官邸が見ることのできる第1原発の映像は、その後も民放局が提供したものが使われ、東電側が独自のカメラを設置したのは数日後のことだった。
ベント
11日午後3時半すぎ、大震災による津波を受けた第1原発は、1~3号機の電源が喪失した。停止した原子炉を「冷やす」作業ができなくなったことを意味する。温度上昇による炉内の圧力上昇が確実になる中、菅は午後7時すぎ、原子力緊急事態宣言を発令、「原子力災害対策本部」を設置した。
しかし、現地は地震と停電の影響で混乱し、東電本店も社長の清水正孝(当時)が出張先から戻れず、同様の状況だった。
官邸内も混乱していた。危機管理センターでは、危機管理監の伊藤哲朗らによる津波被害の状況把握が優先されていた。原発事故対応は首相執務室の隣室と危機管理センターの別室を充て、菅自らが陣頭指揮を執ることにした。
菅の意向は、官邸に詰めていた東電関係者を通じて東電本店のオペレーションルームに伝えられ、さらに現場に行く形になった。後に菅らは「伝言ゲーム」と自嘲するが、現場の状況が自らの思う通りに入らず、「東電は何か隠しているのではないか」という思いに駆られ、徐々に冷静さを失っていった。
午後10時、原子力安全・保安院が、2号機について12日には炉内の燃料棒が溶け出し、爆発が起きる可能性を指摘する報告書を作成、数十分後には菅に届けられた。原子力安全委員会委員長、班目(まだらめ)春樹も格納容器が破裂する可能性があると菅に指摘した。
ベント(排気)の作業を考えたのは、実は菅よりも東電側が先だった。12日未明、東電がベントの実施を通知、菅も追認した。
ところが、現場は作業に必要な電源がない上に、放射線量の上昇などでベント開始への作業は手間取った。現地の苦闘ぶりが入らない菅は、東電本店に「早くやれ」と執(しつ)拗(よう)に催促。それでもベント開始の連絡が入らないことに「東電はやる気がない」と、「東電不信」を募らせた。
(3完)「吉田とじかに話したい」
ベントをめぐる菅の混乱はここから本格化する。
「吉田とじかに話したい」
菅が現地視察を決断したのはこうしたことがあった。同時に「格納容器の中はさらに悪い状況になっているのではないか」との不安から、避難指示の範囲を半径3キロ圏内から10キロに拡大させ、その1時間ほど後にはベント実施を経産相命令として出した。
そんな対応が、放射性物質の放出をもたらすベントの最中に住民を移動させた、と後日国会などで批判を受けることになる。ただ、東電はベントの危険を承知しており、新たな避難が始まったことで作業を中断、実際にベントを開始したのは避難が完了したのを受けてからだった。
ただ、政府関係者は「あの経産相命令が、東電を、政府の指示がなければ動けないようにさせた」と指摘する。
一方、菅が現地視察を言い出したことは、ベントに集中していた官房長官の枝野幸男や海江田、班目ら官邸に詰めた関係者全員にとって、自ら被(ひ)曝(ばく)しに行くようなものであり「まさか」のことだった。
もっとも、東電側は「ベント作業への影響はなかった」とし、菅自身も「吉田所長と会って話してきたことは後々非常に役立った」と成果を強調する。しかし政府関係者は一様に「どこで生かされたのかはわからないし、首相も具体的には言わない」という。
15日未明、菅の東電不信は頂点に達した。「東電が現場から撤退する」との情報がもたらされたためだ。前日の14日は3号機でも建屋の水素爆発が起き、15日未明には2号機の圧力抑制室(サプレッションルーム)が損傷した。
菅は東電へ直行し、清水らに「撤退なんてあり得ない」と怒鳴り散らし、東電内に政府と東電の統合連絡本部の設置を決め、首相補佐官、細野豪志(当時)を東電の監視役につけた。
ところが、東電に「撤退」の選択肢はもともとなかった。「一時退避して態勢を立て直す」方針だったのを、官邸内の誰かが間違って解釈したのだ。
菅は「週刊朝日」のインタビューでも、15日未明に東電が撤退しようとしたと主張している。
政府の事故調査・検証委員会はすでに吉田ら東電関係者のヒアリングを行い、近く菅ら政府首脳のヒアリングも行うとみられる。検証委はどのような結果を出すのか。(敬称略)